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雑感。思いのままに。 Whatever I feel like writing, I will.
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はやくも10月である。時間の経つのは早いものだ。

将来の活動のプラン、ヴィジョンを練って、実行に移している過程であるが、やはりあっというまに月日が経ってしまう。初めてフィリップ・スミスのレッスンを受けた高校生の夏、そのときのスミスの年齢にこちらがなってしまったというのは前にも書いた。現在は色々葛藤がありながらも、充実している。

自らの反商業主義のスタンスを徹底的に貫いても音楽家として生きていけるという自信が備わったと同時に、今まで心のしがらみに捉われて現実的に考えなかった事も、全然実行可能である、と思うと、色々なイマジネーションが膨らんでいる。これがすごく楽しみである。ただ、そうやって充実した人生を送っていくと、あっという間に終わってしまうな笑 これってどうなの?と思ったが、それもまたよしではないか、と思う。

人生、必ず終わりは来るものだ。しかし、時間の過ごし方はまだまだ創造的余地がある。不惑へ向かって色々煩悩し、葛藤しながらそのハザマで生きた音楽を創る。その素晴らしさを感じながら生きられるのは音楽家冥利に尽きるというものだ。

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2008年05月25日12:18

音と音楽は違う物である。それはなぜか。

作為を込めれば音が音楽になるとは限らない。演奏する側がその際に作品から有機的秩序を見出だし、なおかつ聴く側の感性がその有機的秩序から内的真実を感じ取れる時にのみ、初めて音楽に生命が宿るのである。

音楽に於いては、自然の美も、人造美も成立すると思う。ただ、美を感じるそのさらに奥にある「真実」を感じるようになれれば、音楽がその人の人生にさらにプラスな要素をもたらすと思う。もちろん、娯楽、エンターテインメントとして聴くのも重要な音楽の楽しみ方だ。しかし、人生の道のりに葛藤、挫折、絶望があるときに、人の心を根本から癒し、奮い立たせるには娯楽を超えた発想のものが必須と感じるのだ。

音楽、本能とハートだけではできない。でも理知だけでもできない。ただそれを作為的に発生させるよりも、無心になったときにその二つの要素が一番バランスよく融合されているんだなあと感じ、生命の神秘にただただ畏怖するだけである。

日常の何気ない自然の作り出す音に我々は美を感じる。そこにきっと「音楽」を感じているのだろう。そして技術を超えた世界が音楽にはある。だから上手くなくても人の心は満たす事が出来るんだ。
2008年05月19日01:18
よく、忙しいのはいいことだ、と言われるが、オレはちっともそれがいいこととは思えない。なんかそんな事を考えていたら、色々自分の中に湧き上がる思いがあり、それを書き記したい気分である。脈絡がない箇条書きだが、もしよかったら参考にされたし。

精力的に活動する事には良い事もある反面、悪いことも多分にある。もちろん心のゆとりがたっぷりあったから熟考に熟考を重ねた珠玉の作品が生まれるかといえば、そうは思わない。気力の充実と日々身の回りで起こる事の波長があり、それによって人間的不確定要素が、若干演奏に変化を及ぼすとは思うのだ。だから忙しくて色々な事に忙殺されていても、その波長がステージ上でうまくピークを迎えた時は、何か特別な物が自分のインスピレーションから生まれると思う。その波長がピークでなくても、演奏はもちろん楽しんでいることがほとんどなのだが。でなければ、こんな事やって生計を立ててない。

惰性で演奏をするのは聴衆に対する冒涜だ、なんてキレイ事は言いたくない。前も言ったように、演奏会とはアットホームな雰囲気の「一緒に時間を楽しみましょう。自分の作品を提供する対価は戴きますが、その分楽しめる時間が提供出来ることを願って私の時間と労力をみなさんに捧げます。なのでみなさんもこの環境を一番楽しむには、この雰囲気とアンサンブルしてくださいね」といったものであるから、聴衆の波長、テンションがイマイチ乗り切らない時もあれば、オレの波長、テンションがイマイチの時もあるのだ。

でも、演奏会に数字上のCPを求める事というのは、演奏者としても、聴衆としても、非常にイヤな事ではないか。「一期一会」とは表面上の「完璧」を求めることであって、もしそれが得られなかったらすなわち「客に対する冒涜」という意味合いを持つのか。だとしたら非常にそれは横暴な事ではないのか。そんな環境、風潮が音楽界を支配しているのなら、それは演奏者はイヤになるだろう。過去の芸術家、アーティスト達もその思い、葛藤を抱いてきただろう。その空間が自分の楽しめるものではなかったら人生にその縁はないだけであり、それぞれがお互いにとっての良縁を探せばよいだけである。もちろん、自分の世界に閉じこもらないだけの情報は常に集め、高いレベルの好奇心を持つことは大前提としてだ。

なんか、いかにも「常に質の高い物を提供するのがプロだ」「お客様の為にうんぬん」といったおざなりの言葉に疲れているのかもしれない。自分で考え、自分で感じて、それを人生の糧にしている人に自分の演奏会には来てほしい。

現在の音楽業界の煽って、売って、使い捨ててという風潮は嫌いだし、それを受け入れる側のミーハーな風潮も大嫌いだ。海外招聘アーティストの演奏を表面で聴いてハートマーク丸出しで、つたない通訳で本当にアーティストの発しているニュアンスが伝えられず、結果なんの変哲もない有名人サイン会に成り下がっている音楽イベントを積み重ねて流行を作り出しても文化なんぞにはならない。自明の理だ(まぁ、それでも自分で考えている人達がきちんとそこからもっと深いレベルで影響を受け、研鑽を積み、そして現在があるのだから、マイナス面だけではもちろんないが)。

地道に芸術を磨いて、文化の一環とせんという人間に対しての門戸の狭さにはしばし閉口する時もある。

よく誰かのCDを聴いているときに、一緒に聴いている人達の何気に発する言葉を流せないことがよくある。「ミスが多いですね」とか「あんまりピンと来ないですね」とか。本当にその作品を熟知し、熟考と吟味を知っている人間が琴線と触れ合わないという意味合いでそれを使うのはある意味しょうがないところもあるかも知れない。しかし、安易にそういう言葉を発する所に敬意はあるのか。それを「聴き手」というだけで、発する事はいいのか。そんな免罪符は誰も持っていない筈だ。自分の頭の中にあるうっすらとした既成観念をベースにその言葉を発しているのであったら不幸な事だ。オレが年を取るにつれ、「アーティストの好み」が無くなってきたのにはそういう理由があると思う。

「心の乱れ」「人生の路を歩む上での軌跡、大事な1ページ」に不本意な演奏も含まれているのかもしれない。しかし、不本意な部分が演奏にあったとしても、その時間、その人が生きているその時間には決してそれに対してその人達は不本意な思いは抱いていないと思う。フランソワやコルトー、スターシクが音をミスっていても、その芸術世界はまったく曇らない。



ははは。脈絡のない文。陳謝笑
2008年05月16日01:08

これはカペルが1953年夏、オーストラリアからシャーリー・ローズにしたためた手紙からの抜粋である。「聴衆」と云う物の存在を感じなくていい時に本当にアーティストとして創造が出来るという話は過去の日記に書いた。今回は、ステージの上に上がる時に、または練習過程で何を想い、考え、実行すべきなのかを考えてほしい。オレが共感した言葉はこれだ。自分でも常に思うことだ。他人の言葉を通すと、ひょっとしたら諸君も閃くかもしれない。

(ショパンのh-mollのスケルツォについて)「I have not, to this day, enough technique to play evenly, but I have enough to play it with my insides. And while I am a little out of patience with my silly hands, I realize that I have attained enough strength to give the work my feeling for it. What else can I do?」という言葉と

(この曲を均等に安定して弾くだけのテクニックは未だに持っていないんだ。しかし、内に秘めている物はこの曲を演奏するに充分足る物なんだ。自分の手に対して些か不満を感じるところはあるが[思い通りに動かない事に対して忍耐しきれない]、自分がこの曲に対する自分の想いをぶつけるだけの力を持つことは理解している。それ以外に何が出来るって言うんだ?)

「Consider each challenge soberly, and then, step by step, meet it in your own way. That's what I try to do. Sometimes my fingers work, sometimes not, -the hell with them! I want to sing anyway. And my heart seldom doesn't work. So don't brood over technique too much. Remenber that you are a musician.」 (一つ一つの難関[挑戦]を冷静に見据えて、そして一歩ずつ、自らのみに出来る方法で解決していくんだ。それが私がする事だ。もちろん、指が[思い通りに]動くこともありゃ動かないこともある。そんなことはクソ食らえだ!私はどうなったかに関わらず、歌いたいんだ。そして自分のハートが自分を見捨てることは殆どない。だからテクニックに不必要に固執するんじゃない。君は音楽家なのを常に思い出すんだ。)

2008年05月04日17:49 

オレが本番で平静心を保てるようになったきっかけ・・・事前の結果操作を止め、100%に執着しなくなってからだ。それに開眼したのは1999年。1994年~4年くらいはやはり自分との闘いに葛藤した。その時期に国際コンクールとかやってたからまぁあまり結果が出なかったのは当然だなぁ、と思う。でも自らの能力、ヴィジョンは自分で信じてたし、その苦労あっての現在だ。人生努力、研究を具体的にしていき、そこに意志力とインスピレーションが繋がればきっといい方向へ行くのだ。

そんなのを思い出させたきっかけが今偶然読んでいたドラゴン桜19巻。173限目「フリースロー対決」だ。そこに執着のメカニズムがわかりやすく書かれている。本番で緊張してしまう人、これを読んで見たら面白いかもしれない。結果に固執せずに尚且つ、自分が今からやるべき事を具体的にしっかりとイメージし、考えながら踏み出す一歩。怖く感じるだろうし、不安だろうと思う。しかし、その先に見えるものは、必ず本当の自分の持ち味を出すきっかけになっていくものだと思う。

後は20巻178限目「真の強者」。これはいい言葉が入っている。特に攻めと守りのアプローチを両方把握した真の強者の心理。「勝負所で躊躇するヤツは勝てないし成功しない。勝負が懸かった大事な場面で開き直れるか、開き直れないか・・・強者は思い込みで開き直れるが凡人に大切なのは開き直るために・・・思い切れるか思い切れないか・・・結局勝負は思い切って開き直った者が勝ち、成功する・・・」

ただ「無心」なのは不毛だ。「無心」とは日頃積み上げられているものが脳裏に刻まれ、それが自然に出てくることなのである。つまり、脳裏に何も記憶されていなかったら何も出てこない。その違いがわかれば、本番の弱さというのは時間と共に必ず克服されるものだ。

そして最終限目「悔しい」での「東大って試験結果を教えてくれんじゃん・・・合格点まで15点足りなかった・・・例えば・・数学で後一問完答してれば・・・てとこかな・・・ホントあと少しだった・・・あとホンのちょっと頑張れば・・・そう考えると正直スゲエ悔しくてさ・・・でも俺、失敗したとは思ってない・・結果は落ちたけど・・失敗じゃない。ほんのちょっと足りなかっただけ。積み上げたことは失敗じゃない。来年その上にほんの少し積み上げればいいだけのこと」そこに桜木の「矢島・・・来年の春になったらまたここへ来い・・・こうして咲いてるから(桜が)」

人生、ある一つの結果の形だけを見据えていたら人生の発想が減点法になる。そうではないのだ。そんな事をうまく表現しているところだな、と思う。

オレが本番で平静心を保てるようになったきっかけ・・・事前の結果操作を止め、100%に執着しなくなってからだ。それに開眼したのは1999年。1994年~4年くらいはやはり自分との闘いに葛藤した。その時期に国際コンクールとかやってたからまぁあまり結果が出なかったのは当然だなぁ、と思う。でも自らの能力、ヴィジョンは自分で信じてたし、その苦労あっての現在だ。人生努力、研究を具体的にしていき、そこに意志力とインスピレーションが繋がればきっといい方向へ行くのだ。

そんなのを思い出させたきっかけが今偶然読んでいたドラゴン桜19巻。173限目「フリースロー対決」だ。そこに執着のメカニズムがわかりやすく書かれている。本番で緊張してしまう人、これを読んで見たら面白いかもしれない。結果に固執せずに尚且つ、自分が今からやるべき事を具体的にしっかりとイメージし、考えながら踏み出す一歩。怖く感じるだろうし、不安だろうと思う。しかし、その先に見えるものは、必ず本当の自分の持ち味を出すきっかけになっていくものだと思う。

後は20巻178限目「真の強者」。これはいい言葉が入っている。特に攻めと守りのアプローチを両方把握した真の強者の心理。「勝負所で躊躇するヤツは勝てないし成功しない。勝負が懸かった大事な場面で開き直れるか、開き直れないか・・・強者は思い込みで開き直れるが凡人に大切なのは開き直るために・・・思い切れるか思い切れないか・・・結局勝負は思い切って開き直った者が勝ち、成功する・・・」

ただ「無心」なのは不毛だ。「無心」とは日頃積み上げられているものが脳裏に刻まれ、それが自然に出てくることなのである。つまり、脳裏に何も記憶されていなかったら何も出てこない。その違いがわかれば、本番の弱さというのは時間と共に必ず克服されるものだ。

そして最終限目「悔しい」での「東大って試験結果を教えてくれんじゃん・・・合格点まで15点足りなかった・・・例えば・・数学で後一問完答してれば・・・てとこかな・・・ホントあと少しだった・・・あとホンのちょっと頑張れば・・・そう考えると正直スゲエ悔しくてさ・・・でも俺、失敗したとは思ってない・・結果は落ちたけど・・失敗じゃない。ほんのちょっと足りなかっただけ。積み上げたことは失敗じゃない。来年その上にほんの少し積み上げればいいだけのこと」そこに桜木の「矢島・・・来年の春になったらまたここへ来い・・・こうして咲いてるから(桜が)」

人生、ある一つの結果の形だけを見据えていたら人生の発想が減点法になる。そうではないのだ。そんな事をうまく表現しているところだな、と思う。
自分の理想と世の中の意識に悩むのは理想に生きる人間なら多々あることである。その葛藤がでも人生の大きな原動力の一つになるのは否めない。それは人生に必要なのではない。必須なのだ。これを乗り越えなければならないのだ。そこで


これはマイケル・キンメルマン(Michael Kimmelman)の著したThe Undefeated(無敗)というコラムからの抜粋である。

The New York Review Of Books 
Volume 52, Number 5 March 24, 2005

カペルの内向的性格と葛藤、自身が音楽に打ち込む時に感じていたジレンマが表現された言葉の一つである。これは1952年にカペルが作曲家で友人のヴァージル・トムソン(Virgil Thomson)に書いた手紙の一部である。その当時、コンサートレパートリーにアメリカの優れた作曲家が演奏される機会が非常に少なく、また歓迎されなかった風潮(彼のマネージャも彼がアメリカの作曲家の作品の演奏には強硬に反対したという)に対して綴った彼の切実な思いである。

If we allow the present and lamentable accent on commerce and sensationalism to combine, our whole musical culture will be threatened. The situation today appears very serious and no little bit tragic. The powers that control this noble profession are making nitwits out of the large public. I, for one, am sick and tired of going along in any way with so-called public "taste." Many artists do not realize that by doing so they slowly are dying, creatively; and when artists die, so does art.

もし我々が現在の憂慮すべき商業主義とセンセーショナリズムの強調がさらに相乗効果を持つようになったらこの我々の音楽文化は危機に瀕する。現在の状況は非常に切実な物であり、ちょっとの悲劇どころではない。この業界をコントロールしている巨大な力は、一般大衆、聴衆を完全に愚弄し、無知化している。(注※)私はこの「お客様が求めているもの」と称する物に同調するなんて真っ平ごめんだ。アーティスト(芸術家)がそれに妥協していったらそのアーティストはゆっくりと創造的な死へ向かっているのだ。それに気が付いていない。そしてアーティストが死に絶えたとき、アート(芸術)も死ぬ。

(注※)nitwitだが、「無能な、馬鹿な」を意味する言葉。語源は中部ドイツ語から(niht;それにwitを足すと「No-wit」、つまり馬鹿)来ているとされてる。

カペルは中々歯に衣着せぬしゃべり方や、典型的なニューヨーカー的アグレッシブさを持っていて、それでいてものすごく内向的でもあった。繊細で傷つきやすかった。えてして、爆発的なキャラクターは繊細なものだ。ルービンスタインとの不仲のエピソードも中々面白い。

【まぁ、ルービンスタインはオレは人間として好きではない。彼の回想録My Many Yearsを読むと、そのナルシストぶりに反吐が出るくらいだ。彼の音楽も大学2年生以来、ほとんど聴いていない。映像なんかでの彼の尊大で過度にドラマチックなしゃべり方をイメージすると不機嫌になるからだ。】

彼のタウン・ホールデビューの批評は、運命の日(飛行機事故)の12日前に発刊された。その少し後にカペルはユージーン・リストというピアニストと二人で手相師に占ってもらったそうだ。するとその手相師の女性はカペルに「彗星のようなキャリアだが、30歳前に激しく散っていく(死ぬ)だろう」と言ったそうな。

コープランドは、カペルの死の時に、自作のピアノ・ファンタジーをカペルを偲んで捧げた。現存する唯一のカペルの映像の中のテレビ番組「Omnibus」のホストでカペルの友人、アリステアー・クック(Alistair Cook)はその次の週のBBCのラジオ番組、Letter from Americaの中で賛辞を述べ、

「カペルは幸せな男として死んでいった。人生の半ばに差し掛かろうとしている多数の人間達が手にすることの出来ない幸運・・・自分を全く妥協する事なく、その人生の終わりまでベストを尽くす、ということが出来た数少ない人間であった。彼の人生の終わりはその始まりと同じようであった。彼のなりたかった姿、生意気で、だが忠実な「音楽」という存在に仕える身。彼が死んだ時は金など残さなかったが、飛行機の羽が山の尾根を擦った時、彼は散っていった・・・(※2)バニアンの「巡礼者」のように・・・無敗で。

Kapell died a lucky man. For not many men come into middle age hav[ing] been fortunate enough to go through to the end without, in some forgivable way, compromising their best. He ended as he began—a cocky, humble apprentice to the master he hoped to be. He left no money, but when the wing of his plane touched that mountain, he went out like Bunyan's pilgrim—undefeated.

この様に過去の名著(ジョン・バニアン[John Bunyan]のPilgrim's Progress(「天路歴程」と訳されている)という本を例に出し、格調高く、そして友への想いを込め、そして重くならないようにその中に若干ブラックユーモアを込める、そういう欧米文化の「wit」が理解出来ないと、音楽というのは見えてこないかもしれない。ちなみに英国から清教徒がメイフラワーでアメリカに上陸したのは1620年)

カペルの想い、言葉、危惧が現実の物となっているのは、彼の死後55年経った今の世の中、マスコミ主導の横暴がまかり通り、音楽業界が「商業」として牛耳っているのを見ても明らかだろう。オレも妥協などしない。利用などされない。自分の理想を貫く。それを18歳、大学1年生の時から胸に抱き、はや20年近く。道のりは遠い。だれも開拓したがらないあぜ道。しかし、これは自分の一生をつぎ込むに相応しい人生の事業だと思う。なので、葛藤が多い険しい道だが、それを歩むオレの表情は喜びに溢れていると思う。

今日のアンサンブルコンテストを見てもそう思った。この国に本当の音楽教育を施さねば、と。そして自分の信じる音楽を奏で、そのエネルギーで聴く人にインスピレーションを与えたい。


カペル関連のコラムはこちらから読める。キンメルマンの他の著、そしてシカゴ・トリビューンの著名な批評家だったClaudia Cassidy、そして作曲家ヴァージル・トムソンなど。英文だが、ゆっくり読解されたし。

http://www.williamkapell.com/articles/

【ちなみに、まだ残っているリンクもありますが、アメリカのカペルのウェブサイトからの演奏映像のリンクは削除されています。カペル未亡人のアンナ・ルーはカペル関連の資料に対する管理が大変厳しいようで。国際ピアノアーカイブスの友人に聞きました。残っているものも時間の問題かと。】
なんか、日本語と日本の固有の論理体系って不便なんだよね…英語でパキッと突き放すように叱るニュアンスを日本語で使うと角が立つ。ちゅうか、それを使うことによってその言葉を発している人間が「イヤな奴」に仕立て上げられる文化的背景がある。不必要で小義な遺恨を感じさせるめんどくささ。その窮屈さが、オレは大っ嫌いだ。

それについてだが、日本の世俗の根底にある要素の一部、「恨みつらみ」の世界、文化に通じるものがあると感じる。昼ドラやらワイドショーのノゾキ趣味(自分のことは棚上げで他人のゴシップに首を突っ込む)やドロドロな陰湿さというのはこの文化の副産物だ。

日本人の美徳足る、表現における抑揚の節制は格調高い芸術となると同時に、逆に人を内向的に抑圧しパッシブ・アグレッシブにさせる面も持つ諸刃の剣である。表立てて自分の個人の意志ではっきりと表現しない(出来ない)分、他人も巻き込んで、意識を共有しているという安心感の後楯の元に陰湿に他人の攻撃をする。自分の判断基準に基づいた行動をしていないから、常軌を逸した行動もそのまま疑問を挟まず、加減を知らずにやってしまう。そして自分が絶対多数の側に立っている限りは絶対反省しない。

この陰湿さにセンセーショナルさを加えると、とんでもない行為が黙認される。一般市民のメディアリテラシーを踏み潰すような確信犯的行動を起こすマスコミ主導の世論、価値観形成が行われる、ということもあながち不思議ではあるまい。この現象をメディア・ファシズムと呼んでもおかしくない。

この横暴さは社会のうえに大きな影を落とす。日本社会におけるいじめ、流行に流される、ミーハー、外国に認められたい自意識過剰、というのは全て内向的内弁慶的なもので、中に蓄積された欝憤は破裂する。その結果、抑揚というものは存在を失う。ちなみに日本が「国際的に注目を浴びている日本人」とブチ上げる人たちの大多数が注目等まるで浴びてない。宣伝費が多くなればなるほどウソ、誇張も大掛かりになる。ジャパンとジャパンマネーで操作した海外のリップサービスだ、祭騒ぎの元凶は。


それに窮屈さを感じる事は多々ある。配慮というのは根底にある自分の信念を妥協することではない。突っぱねることも必要なのだ。

なんか、日本に住んでる自分がなんでも受け入れ、その中から最善を尽くす、という自分の性格の一面に存在する偽善がいやだ。英語なら受け入れたくないことは2秒で決断し、拒否できる。同じ事を角を立てずに日本語でやると5分掛かる(苦笑)

もっとオレは「動かない事山の如し」で、堂々としているべきだ、と自分に言いたい。拒否すべきものは「いつも通り秒殺」。日本語でも。

支離滅裂、しかし眠いからいい笑

おやすみ。
まだミクシィと両立状態で結構中途半端になっている。4月をメドに以降はする方向なのだが。まぁまた詳しくはこちらでもお知らせします。
NFLを引っ張ってきた我がライバルチームのQB、Brett Favreがついに引退した。ダン・マリーノやジョン・エルウェイと並ぶ偉大なこのクオーターバック。ファイティングスピリットと、現代NFLでまれに見るタフネス。253試合レギュラーシーズン連続出場。これはプロ野球の比ではないのだ。タックルをガンガン食らって、怪我のリスクはどのスポーツよりも多いといってもいいアメリカン・フットボール(オレにとってフットボールとはアメフトであって断じてサッカーではない)での16年間ほぼ全試合スタメン出場というのはとてつもない偉業なのだ。我がブロンコスの宿敵、1998年のスーパーボウルで戦い、今年のジャイアンツVSペイトリオッツとならぶ名試合を戦ったファーヴとエルウェイの両雄。そしてエルウェイ16年目にしての悲願達成。ファーヴはその時、「I didn't have it today」と素直に負けを認めた。圧倒的にメディアのセンセーショナルな報道でパッカーズのボロ勝ちが予想されていたその時、非常にパッカーズに反感を抱いていたのだが、ファーヴの潔いスポーツマンシップを感じて、オレはファーヴの事をいい戦士だな、と思っていた。

そんな彼も引退。

段々、スポーツというものが自分の生活の日常から遠ざかっていくのを感じさせる、寂しい一瞬だった。

最近のTVのスポーツは過剰にセンセーショナルな報道と拝金主義の台頭により、子供に夢を与えるものではなくなってしまった。はっきり言って、大衆娯楽としてのスポーツにも終焉が訪れるのではないか、と内心危惧する所がないでもない。

さよなら、ファーヴ。お疲れ様。
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プロフィール
HN:
H. Noguchi Esq.
年齢:
51
性別:
男性
誕生日:
1972/08/21
職業:
音楽家
趣味:
多彩
自己紹介:
現在東京を基点に世界各地で活動している音楽家、トランペット奏者。自らの信念を基に、日々修行と交流に生きる。
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